バラードのかみさま


 ひらりひらりと、踊るような足取りで少女は歩く。
もしかしたら、それも小宇宙かもしれない纏は緩やかな風に靡いた。
「あ…これ。」
 風に乗って聞こえてくる曲は、バラード。
 聞き覚えのなる旋律は、殺人事件を引き起こしたと世間で有名なあの曲だ。けれど、伸びやかなで美しいラミロアの声と重なる歌声にみぬきは目を丸くした。バラードの女神と共に歌うバージョンは、シングルカットなんかされていない。アルバムにのみ収録されている限定版。こんなものを有線でリクエストするなんて、きっとコアなファンだけだろう。

『でも、この曲だけは王泥喜さんも好きなんですよね。』

 弟のように手が掛かる同僚を思い浮かべて、みぬきはクスリ笑った。



 今度は電車に乗って目的に向かった。
 通りがかった店先から流れてくる曲を耳にして、少しだけ脚を止める。手に持つ上着を一瞥してから、王泥喜は目的地に向かって真っ直ぐに歩き始める。
 声は確かに王泥喜が聞きたいと望んでいる人間のものだったのだけれど、欲していたのは『声』だけではないのだ。
 メッセージに告げられた通りに検事局の扉をノックすれば、聞き慣れた声が中に入るようにと即した。もの凄い時間が経ってでもいるような感覚で、王泥喜はその声を受け止める。やっと巡り会った、そんな気分だ。
 携帯を通して聞いてから半日だって経っちゃいないし、今日の朝まで会話を交わしていた相手の声。さっきだって歌を耳にした。
 でも…。

「おデコくん?」
「え、あ?」
 扉の前に突っ立ていた事に気付き、王泥喜は扉の向こう側で不思議そうな顔をしている牙琉検事に、愛想笑いを返す。
 相変わらず開けたシャツの胸元に、ガーゼとテーピングでの治癒を認めて、王泥喜は顔を顰めた。怪我でもしたんだろうかと気に掛かる。
「入らないの?」
 凝視していると再び即された。牙琉検事は王泥喜が通れる広さまで大きく扉を開いた。そして、身体を横へずらそうとして王泥喜が持っている上着を見て「あ」と声を上げる。
「おデコくんが持ってきてくれたんだ。」
「はぁ…なんとなく、成り行きで。」
 他に言葉も見つからなくて、そう告げて上着を差しだした。見ると、牙琉検事が跋が悪そうな表情で王泥喜を見ている。
「どうかしましたか?」
「いや、来てくれたから良かったんだけど。電話の後ですぐにこっちへ帰って来てしまって、連絡しようと思ったんだけど携帯が見当たらなくて…。」
 悪かったね。
 そう告げる相手に、王泥喜はズボンのポケットから携帯を取りだした。
「上着のポケットに入ってましたよ。」
「そうか、いや本当にごめん。迂闊だったよ。」
 ホッした表情で受け取って、もう一度ありがとうと王泥喜に礼を告げた。
「携帯の紛失届を出しておいた方がいいんじゃないかとか、思ってたところだったんだ。助かった。」
 ついてない時はトコトンついてないものだからね。と、あの事件の時のように愚痴を口にする牙琉検事を遮って、王泥喜は言葉を付け加えた。
「上着を貸した時に入ってたんでしょうかね?」
「うん。どうやらそのようだね。お嬢ちゃんとお茶を…あ、あの電話で話したホテルのティールームなんだけど、空調が効きすぎて寒そうだったから貸したんだ。
 マントなんて種隠しであって防寒作用ゼロですとか言ってたな。そういうものなのかい?」
「どうでしょう。」
 クスリと王泥喜は笑みを浮かべる。
 これで証拠は充分揃った。考えてみれば、下手なドラマじゃあるまいし、そんなに都合の良い事など起こるはずがないじゃないか。
「とにかく入って。僕も話があるって言ったの嘘じゃないんだ。」
「そうですね、俺も話しがあります。」
 見合わせた顔には少しの緊張と躊躇いが垣間見える。きゅっと締まる腕輪はこの際無視だ。
 みぬきたい訳じゃない。確かめたいだけだ、心の在り所を。
 
 部屋は朝と同様に整ったまま。部屋の中心にあるテーブルには、トレイに乗った珈琲カップがふたつ。客が帰って片付けをしていた途中だったのだろう。
「折角片付けたのに、また昨夜と同じだったらどうだろうか…って思いましたよ。」
「失礼だな、おデコくんは。」
 ぷうと頬を膨らませる牙琉検事の表情を可愛らしいと感じて、王泥喜はからかうように言葉を続ける。こんな顔をもっと見ていたいと思う。
 もっと、近くでずっと。
「だって、凄い書類の束だったじゃないですか。ひとりで片付くとでも思ってたんですか、あれ。」
「そりゃあ、おデコくんが来てくれなかったら片付かなかったさ…でも、誤解してるみたいだから言うけど、あれは成歩堂さんの書類だよ。僕はあんなに書類なんか溜めないよ。」
 上着と携帯をソファーに置いて、洗い物を片付けようとしていた牙琉検事はさも不愉快だと顔を歪める。美人は怒っても美人だと感心していた王泥喜は、言葉を反芻してようやく彼の言った言葉を理解した。
「え、えええええ!?」
「ちょっと、常識で考えてよ。検事側の書類を弁護士であるおデコくんに見せるはずがないだろう!?」
 …そう言われれば、そうですよね。
 緩いカーブを描いているだろう前髪を見据えて、牙琉検事の表情が呆れたものに変わった。トレーのカップを指さす。
「さっきまで居たの成歩堂さんなんだ。早く終わったねって、吃驚してたよ。」
「なんで、そんなの引き受けたんです?」
 当然の疑問が王泥喜の口から零れた。なのに、牙琉検事は躊躇いを浮かべたものに変わった。頬を赤らめて伏し目がちに視線を送る。
 ちょっと、いやかなり色っぽい。
「呆れないでおくれよ?」
 こくんと素直に頷いた王泥喜は、しかし牙琉の答えに瞠目した。
「僕が成歩堂さんに謝罪したがってたの、知ってるだろ? それを受け入れるかわりにお願いって頼まれたんだ。書類整理。」

 小学生の居残り掃除のレベルだろ…それ?

「ほら呆れた。」
「いや、アナタにも呆れたんですが、成歩堂さんにも呆れました。」

 自分でやれよ。それぐらい。
じゃあ、やっぱりあの言動は俺をからかう為のものだったんだろうか。

「…何だか色々考えてたんで、力が抜けました。」
「そう? じゃあ、珈琲でも入れるからちょっと座って待っててよ。」
 溜息のように、ばふんとソファーに座り込んだ王泥喜を包容力たっぷりのクッションが柔らかく受け止めた。


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